"My Pure Lady" Junko Sakurada

新・桜田淳子資料館

山村美沙『小説・長谷川一夫』より

桜田淳子の思い出

 東宝歌舞伎は、長谷川一夫主演と同時にその共演女優の華やかさも、名物の一つだった。

一夫ほど、多くの女優と共演したスターもいないのではないだろうか。

その相手役の華麗さと、顔ぶれの多彩さは、驚くばかりである。よく、これだけの人たちを集められたと感心するが、多分、一夫のプロデューサーとしての腕の凄さもあるのだろう。

まず、東宝歌舞伎の第一回目は、中村扇雀が女形として、相手役をした。以後、このコンビは、十一回まで続いた。

 女優が、からみ始めたのは、三回目からで、草笛光子、越路吹雪が、この回には好演し、準相手役をつとめた。

 四回目から、大女優の水谷八重子が登場した。一夫と八重子のコンビは、これ以後も続き、合計六回となった。

 特に、菊田一夫演出の「一本刀土俵入り」は、八重子と一夫の息の合った舞台づくりが大人気で、超満員になった。

 一夫と、最も多く共演した女優といえば、山田五十鈴である。山田は、戦前から一夫の主宰していた新演伎座にも参加、地方巡業などもした間柄である。山田は、一夫が病気のために出演できなかった五十九年のお正月の東宝歌舞伎にも、相手役として、出ることになっていた。

 結局、これには一夫は出演できず、林成年とのコンビで、「舞踊・春夏秋冬」を踊ったのである。

 この他、京マチ子、山本富士子、淡島千景、朝丘雪路、司葉子、藤純子、星由里子、池内淳子などがいる。中でも珍しい相手役には、岡田嘉子がいる。岡田と一夫は、プライベートでも行き来があり、一夫は、岡田に、

「もっと思った通り自由に生きなさいよ」

とよくいわれたと語っている。

「舞台女優で、共演していないのは、杉村春子さんぐらいかな」

と、一夫は話していたが、まさに、文字通り、トップ女優、総ナメという感じだった。

 ところで、こういう、そうそうたる女優陣の中に、思いもよらない若い歌手が一人、長谷川東宝歌舞伎に迎え入れられたことがある。その人は、アイドル歌手の桜田淳子だ。

 桜田淳子は、山口百恵、森昌子と共に、中学生時代から、歌手として芸能界にデビューし、「幸せの青い鳥」では、新人賞を貰った可愛いティーンの歌手であった。

 その桜田淳子に、長谷川一夫自ら、声がかかり、彼女自身、びっくりしたという。

 桜田淳子に、東宝歌舞伎出演のときの、一夫の思い出を、語って貰った。

 桜田淳子が、一夫と舞台で共演したのは、昭和五十三年十月の東宝歌舞伎「おはん長右衛門」の公演だった。

 当時、桜田は、アイドル路線を走っており、歌に、テレビに、ドラマに、映画にと、多方面で活躍するタレントだったが、十代に別れを告げ、大人へ芸域を広げていく難しい時期でもあった。

 そんな時、東宝歌舞伎という、淳子にとっては初めての、大きな舞台の話が持ち込まれたのだ。

「事務所から聞かされたのは、その年(昭和五十三年)の三月頃でした。えっ!と驚くような感じじゃなかったんです。

 こんなふうにいうと、生意気に聞こえちゃうんですけど、私って、わりと、予感みたいなのがあって、それが鋭いんです。もうそろそろこんなものでもやりたいなあ、やってもいいなあって思っていると、大抵、そういう話がくるんです。その時も、やっぱり、そんな感じがしてて、ヒョンとこのお話をいただいて、す−っと心がそっちへ向いていったみたい」

 淳子の所属するサン・ミュージックでは、アイドル歌手、桜田淳子としてのイメージが強い頃だっただけに、長谷川一夫の相手役という大舞台を初めて踏ませ、失敗したときのことを考えて、躊躇した。しかし、本人と話し合った結果、事務所としては、淳子の決定にまかせるということになり、異色というより、意外ともいえる長谷川一夫の相手役にきまった。

 桜田淳子は、続ける。

「先生と、初めてお会いしたのは、四月になってからで、先生のお宅へご挨拶に伺ったのです。そして、いろいろと、お話をするうちに、長谷川先生は、私の映画『若い人』(五十二年五月公開)をご覧になっていて、それで、『この子がいいね』とおっしゃったということがわかったんです。その言葉をきいて、何だかほっとしましたね。私みたいな小娘を、なぜ先生が……って思ってたから。それで、気が楽になったの」

 一夫と桜田淳子では、芸歴はもちろんのこと、年齢も、五十歳も離れている。まさに、天と地のへだたりがある。そんな淳子の緊張する心をなごませるように、一夫は、麻布の自宅へ淳子を招き、手入れのいき届いた庭園を披露した。

「お邪魔したのが夜だったのですけれど、庭には灯がともされていて、庭園全体が、一ポワッと浮かび上り、まるで、日本画みたいな美しさなの。

 中でも、桜の花が、きわだって美しかった。なんでも、京都から、わざわざとり寄せたしだれ桜だそうで、先生は、花の中でも、桜が一番好きなんですね。

『ほら、ごらん。きれいやろう。京都から取り寄せたんやでえ』

 長谷川先生は、そうおっしゃったの。その時、ああ、先生は、きれいなものには、すごく敏感なんだなあ。美に対して、どんなにお金を使っても惜しまない人なんだなあって思ったの。それに、桜田だから、桜を見せて下さったのね」

 一夫が、美というものをあらゆるものから追求していく心を、淳子は、初対面の頃から強烈に胸に植えつけられたという。

夏が過ぎ、九月になると、淳子は、初舞台に向って、全力を傾けていった。事務所も、テレビ、ラジオ、取材といったさまざまな仕事を入れず、稽古のために、スケジュールを全部あけた。

 やがて稽古が始まった。やることなすこと全て、初めて体験する事ばかりであったが、淳子派、(この身、この躯を先生に預け、お願いしよう)と一夫の中に、飛び込んで行った。

「とにかく、初めて経験することばかりでしょう?分からないことばかりだから、何でも聞きました。舞台での所作、動きなど、こと細かに聞きました。手の動き、足さばき、身のこなし方など、ひとつひとつを、先生がお手本を示してくれるんです。

私は、教わった通りに動き、演じ、覚えていきました。今、思えば、舞台に立つ者にとっては、当り前の事でも、その時の私は分からなかったから、恥ずかしいとも何とも思わずに聞きましたね。先生からは、『恥ずかしいと思わないで、何でも聞きなさい』と言われていたし、恥ずかしいから聞かなかったら、もっとよくないことになりますものね」

 長谷川一夫の公演一座というのは、息子の林成年をはじめ、長谷川季子、長谷川稀世などのファミリーと、長谷川一夫と舞台を共にしてきた直系のお弟子さんばかりという、文字通りの長谷川一族で、構成されている。

 そんな中に、タレント桜田淳子を迎え入れた長谷川一夫は、全員に、「淳子ちゃんをもりたてて、よーく面倒をみて可愛がってあげなさい」

といったという。

 神様のような存在の長谷川一夫が、若い芸能界の後輩をいたわる深い思いやりや、座員一同の暖かさにつつまれて、桜田淳子は、おはんそのままに、純真無垢な身をさらけ出して頑張った。着物の着つけにしても、きつく締めないでも、着くずれしない着方、帯の位置、そして下着と紐、足袋は自前の物を用意しておくことなど、舞台でのきまりを教わったという。

 桜田淳子は、それまで、テレビや取材などで着物を看ても、用意された物で、着つけされてきたので、これは大いに勉強になった。

 今でも、着物を着る時は、一夫の教えを思い出しながら、自前の下着、小物を用意していくという。

 化粧にしてもそうだった.時代物独特な舞台化粧の仕方を、淳子は、古くから長谷川一夫についているお弟子さんに教わった。

 汗をかいても崩れない化粧法、舞台によって、濃淡を変え、色を変えていく法など、いろいろと教えられたのである。

 淳子は、一度教えられた化粧法を、次の日から自分でメーキャップしていく。

「でも、舞台稽古初日の時、衣裳を着て、化粧して舞台に上がったんですけど、ゼンゼン動けないの。棒立ちのまんま。そしたら、先生が、

『何やってるの!上前とって』

と怒鳴られたの。

『上前って?』

と、いったら、

『つまを持つの!』

と、またまた大声。

『つまって?』

と、立ったままで動けない。そしたら、先生が、パーツときて、私の所作をやってくれて、やっと動きが分かったの。

 もう稽古は、その連続でしたね。怒られるとか、叱られるって感じより、それが当然の事だったから、うれしかったですね」

 こうして、一か月の稽古を経て、十月一日初日の夢が開いた。毎日、一夫より一時間早く楽屋入りし、自分で着物を着て、化粧をし、おはんになると、座長の楽屋に挨拶に伺う。

「入口のところで、畳に膝をつき、『おはようございます。本日もよろしくお願い致します』と、

挨拶するの。やはり、テレビや、ショー、舞台での楽屋の挨拶とは違い、大変厳しいシキタリというのを感じましたね。これは、とってもいい経験でしたね。どこの舞台へ行っても恥ずかしくないんですもの。座員のみなさんの行儀作法のよさがわかります」

 この楽屋の挨拶の時、一夫は、役者の着つけ、化粧具合などを見て、その都度、適切なアドバイスをするという。一夫は、座長の目を、役者とは別に持っていた。

「おはん長右衛門」のすべり出しは、順調であった。劇評もよく、淳子にとっては、あっという間の一か月であったらしい。

「先生って、可愛いいたずらが好きでしたね。千秋楽の日だったかしら、踊りの場面でもないのに、急に踊り出してしまって……私はあせって、何が何だかわからないままに、踊りに合わせたんです。他の役者さんたちは、おかしくって、笑い出しそうでした。でも、そういうのって、とても楽しかった」

 公演の合い問に、舞台が終わると、長谷川稀世や、その子供たちと一緒に、食事に行ったこともある。

「そんなときの長谷川先生のやさしいおじいちゃんぶりには、ステキな人だなあと感心させられてしまったわ」

と、桜田淳子

 一か月の公演が終わった後、桜田淳子は一夫から、記念品をプレゼントされた。

「先生からは、黒のラメ入りのニットドレスで、奥様からは、バッグをいただいたんです。うれしかったわあ、ほんとに」

 バッグは、それ以来、片時も離さずに使っているし、ラメ入りのニットドレスは、大切にしまってあるという。

「おはん長右衛門」は、翌年の五十四年に、大阪歌舞伎座で、再演された。

「最初の東京公演が終わったあと、長谷川先生から、『年をとると、淳子も変わっていく。今のまま箱の中に入れてしまっておきたい。このまま、素直にいってくれたら……』と、いわれたことを、憶えています。私は、心の中で、誓いました。『絶対に変わらないぞ』って。再演する詰もまだなかったのに、よーく憶えています」

 大阪公演を終えてから五年、桜田淳子は、再び、長谷川一夫と会うことはなかった。

「先生からは、何でもいいから聞きにいらっしゃい。遊びに来なさいと言われていたのですけれど……。今思えば、もっと、もっと聞いておけばよかったと思うことばかりです」

 淳子が、一夫の訃報を聞いたのは、日本を遠く離れたヨーロッパであった。日本テレビで放映された「二十五歳たち」のロケで、四月、三週間、スペイン、イタリアを旅していたが、撮影も最後になり、帰国まであと二日となったある日、スタッフの一人から聞かされたのだった。

「ヨーロッパロケに発った二日後、先生が、亡くなられたのですけど知りませんでした。以前から、お身体の具合が悪いという事は、お聞きしていて、とても心配していたんです。私の行った所が、スペイン、イタリアなので、なかなかニュースが入って来ないし、聞かされるまで、全然、知らなかったんです」

 ロケ隊のスタッフは、いち早く、一夫死去のニュースをキャッチしていたが、淳子には知らせなかった。

 淳子に知らせて、彼女にショックを与えたら、撮影にさしつかえると、配慮したのである。

 日本へ帰る飛行機の中で、淳子の頭の中には、一夫とのいろいろな思い出が、走馬燈のように駈けめぐったという。

 ヨーロッパロケから帰ってくると、すぐに、一夫のお焼香に行った.

「お葬式に出席していたら、泣いていたかも知れませんけど、お焼香した時は、心静かに手を合わせて、先生に語りかけて釆ました。『先生ありがとうございました。これから、ずっと近くで見守っていて下さい」って」

 淳子は、肉体は滅びても、たましいは現世にあると信じている一人だけに、一夫のたましいが、見守り続けていてくれるとうれしそうに語った。

 一夫との共演以来、桜田淳子は、一まわりも、二まわりも、芸域が広くなり、人間的にも成長したといわれている。

 一夫との出会いが、十年分の芸能界に於ける体験にも等しく、一挙に成長させたというのが、大方の見方である。

 一夫が、若い桜田淳子を相手役に選んだのは、手あかのついていない、無地のままの淳子を、自分の教え通りに仕込み、そのまま、長谷川歌舞伎を伝えていきたいと思ったのではないだろうか。

 一夫は、共演する女優には、やさしく、色々と気を使ったといわれる一方、厳しかったという詰も伝わっている。

「役者は、いつも孤独。踊るときも、演じる時も」と、晩年の一夫は、しきりに林成年に言っていたという。

 TBS会館地下の洒落たイタリアン・レストランにあらわれた桜田淳子は、焦茶色のスーツに身を包み、溌剌とした感じで、一夫のよい思い出だけを語ると、にこやかに、帰っていった。


※ インターネット用に見やすいように一部編集していることをご了承ください。(管理人)


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